ずっと気になっていました。

なのに、この街では劇場上映されない。なんてこった。ということは、自主上映しかないってことなので、誰かが手を挙げて、この街で上映してくれないかなって、ずっと思っていました。

とんでもないこの他力本願な思い。でも、意外と私の他にも、その他力本願さんは多かったみたいです。だって、同じ声をあちらこちらでも聞きましたから。

でも、でも、なんということでしょう! この街での上映が決定されたんですね。他力本願な私達の思いは、この街の実行力のある方達のお陰で、叶えられることとなりました。本当に感謝です!

この映画は、重い知的障害と自閉症を抱えながら生きる人達が、東京の街で、介護者付きの一人暮らしを実現させている日々と、それを支える人々のドキュメンタリー映画です。

そりゃあ観に行きますよ。だって、不思議だったんです。

だって、疑ってたんです。

最重度で問題行動の激しい人達が、どの時代であっても、一人で暮らして生活するなんてありえますか?

たった1日の、しかも夜から翌朝までだけの、短期入所としての施設でのお泊まりだって、申し込みも随分と前から予約して、施設側が頑張って調整してくれて、本人達も待ちに待って、そして、やっとその時間を過ごした後に、また振り出しから同じことを繰り返しているのですから。

聞こえてくるのは人材不足。

そして、重い障害をもった人達と向き合う難しさ。

大変な割には収入は新卒者よりも少ないなんてざら。職員が辞めてしまって、日程の確保ができないという事態も起こりがち。今月の利用は希望に添えません……なんて、普通にあったりするんです。

ただでさえ問題行動が激しい人達は敬遠されるし、人材もないのにどうやって一人暮らしの支援する人を確保できるの? そもそも、どうやって親元や入所施設を離れて暮らしていけてるの?

そう思いながら観ていたスクリーンの人物達に、私は正直驚きました。

人が人として生きていくための本質を、彼らがスクリーンの中で教えてくれていたんです。

本当に驚いたんです。

一人暮らし? 二人暮らし?

彼らの暮らしは、介護者付きで成り立っています。その暮らしの中には必ず介護者がいて、その介護者とのやり取りが、時にコミカルに、時に暖かく、時に切なく映し出されています。

朝晩といろんな人が入れ替わりで支援するため、ずっと介護者がいる状態であり、彼らが一人になる時間は1秒もありません。

これを一人暮らしというのか? 

けれど彼らのような人達の多くは、年老いていく親と暮らしていたり、施設やグループホーム、病院で暮らしているのです。

自宅でも親は年をとっていく。ヘルパーの力を借りなければ、とても暮らしていけない。けれど、ヘルパーは決められた時間から時間までの間しか関われない。それが、本人のタイミングではないかも知れない。家の中では、どうしても様々な制限がかかり、彼らの思いを満たすまでには至らない。

施設やグループホーム、病院では、集団で動くことがほとんど。もしくは各々、スケジュールに沿って動くことが基本になる。一人外れて行動できたとしても、特別感を味合うよい機会……なんて悠長なことは言っていられない。

けれどこの映画の中の彼らは、介護者が側にいても、自分のタイミングで自由に外出をして、好きな格好で食事して、好きなスケボーを好きなだけして、そして日中もちゃんと施設に通所もしている。

彼らの自由は、実はささやかなのかも知れないけれど、それでも自分の意志で決めることができる。

側にいる介護者の都合なんて関係ない。自分のタイミングが許される空間が、そこにはあった。

この、彼らが手にすることができている「自由」こそが、二人暮らしならぬ一人暮らしだといえる所以だと思うのです。

会場にわき上がった笑いがハーモニーになった

彼らの行動は、時にコミカル。でも、本人達はいたって真剣。

ふ〜っと吹いて飛ばすタンポポの綿毛も、食べてしまうツツジの花も、自由に飛び交う鳥達も、真剣な彼らの側にある風景として生き生きとしていました。

数々のスクリーンの中のエピソードに、会場ではあちらこちらから笑い声がわき上がっていました。

それがちょっと面白かったのは「あ、この笑いは共感した親御さんたちかな?」「あ、今笑ったのは介護者目線の方達」というのが分かったんです。

会場にはたくさんの障害を持ったお子さんの親御さん、介護側の方達もいました。そんな中、笑うばかりではなく、たくさんの共感を持って観た方が多かったと思います。

この笑いのハーモニーがもっと広がってくれば、共感部分は違っても、きっと親も介護者も地域の人達も、なぜこんな子どもを産んで育てているのか、なぜ支援しているのか、なぜ受け入れるべきなのか……それが解るようになるんじゃないかな? なんて気がするから不思議です。

日常と非日常の違いってなんだ?

1人の介護者が言いました。

「周りの人間にとっては非日常でも、僕と彼にとっては日常」「自意識が強いから恥ずかしいと思う」

自分の分析をしながらも、介護をしている中で「日常」と「非日常」は人によって違うことを理解しているからこそ、多くが「非日常」とされてしまう彼らの「日常」を、受け入れようとする葛藤も映し出されていました。

それは親も同じことです。自分と子供にとっては日常であっても、それを非日常として許さない人達がいる。親として子どもを受け入れていても、一歩外に出ると、人の日常に合わせるしかない場面は、あまりにも多いのです。

求めているのは人! やっぱり人なんだ!

「なぜ、この世の中にこういう人達は必ずいるんだろう」

「それは、必ず意味がある」

「本人が外に行きたいって言ったら、ダメだって言う権利はもともとない」

そんな介護者の声と

「(本人は)抑えたい、抑えられない、自分ではどうすることもできないという……」

「あぁ、おれ、間違ってたなって……息子はずっとそうやって、俺をみててくれたんだよね」

という親達の声。

その狭間に見せていた、彼らの表情や行動を見ていて、ハッとさせられることがありました。

絵の才能が抜群なリョースケが描く人の絵は、じっくり見ていないと描けないほどの繊細さ。彼にとって走る電車は芸術であり、その大好きな電車の絵の中にも、必ず人が紛れ込んでいる。

ヒロムさんは、しょっちゅう「ター」と叫んでしまう。しかも、人とすれ違う度にも「ター」と言ってしまう。人を意識しているタイミングの、ちょっと笑える「ター」。

問題行動の激しいユウイチロー。外出が大好きな彼は、一緒に外出をする介護者との関係性が生まれて、問題行動がどんどん減ってくる。ところが、長い雨のせいで外出ができなくなり、問題行動が再燃してこじらせていってしまう。

あの、恐ろしい「やまゆり園大量殺人事件」の被害者であるカズヤ。事件のあと、呼んだこともないのに「お父さん、お父さん」と呼んだ。生きようとして頑張った彼は、今、人との会話を楽しんでいる。

みんなみんな、人との関係を求めている。実は彼らこそ、1人では生きていけないことを知っている。

求めるのは、構造化された空間や整えられた環境なんかではない。人との関わりこそが大事なんだと。そう、彼らが教えてくれている気がするのです。

あれ?もしかして一人暮らし、できちゃう?

この中の彼らの行動や表情に、わたしは自分の息子の姿を重ねて観ていました。

そして、いつの間にか一人暮らしをするということにも、自分の息子を重ねて考えていました。

正に自由人のわたしの息子が、自分のタイミングで、大好きな外出をしている姿を、知らず知らずに重ねていったんです。

親と大好きなドライブに行っても、家には帰らない、もっと遠くに行きたいと訴える息子を、やはりその日の生活のために、制限をかけて帰ることを説得しなければなりません。

一度、このまま息子が行きたいと言うところまで付き合ってみたら、どこまで行くか試してみたいね、と夫婦で笑いながら話したことがあります。もちろん、そんなことはできません。

けれど、この家の子どもなんだから、家族の都合にも合わせなさいというよりも、1人の大人として、自分の意志で納得する行動ができる方がいいに決まっている。彼らのような介護者付き一人暮らしなら、少なくとも今より自分の思いを遂げられるんじゃないか。

本当に、心揺さぶられました。

不思議だったんです。疑っていたんです。

でも、もう疑いません。目の前のスクリーンの中で観ているものは、真実なんだって。

もしかして、こんな介護者達がいてくれて、生活を支えてくれたなら、息子も同じようにこの地域で1人で暮らしていけるかも知れない。

人材不足と言われるこの街でも、実は重い障害を持つ人に対して、こんな取り組みがされたことがあるらしいのです。一人暮らしの人を、この街でも支えている人達は、今もわずかながらいて、ほぼボランティアとも聞きました。

その取り組みに、きちんと報酬が取れるようになったらしいのですが、それでも人材が足りない? 報酬も足りない? 広がっていかない理由はたくさんあるのでしょう。

「やってもいいよ」と手を挙げる介護者さん達はいませんか? 仕事として成り立つように、システムを作れる福祉の事業所さんはいませんか? 

親達は何をすれば支えてくれる人達に出会えて、どうすれば子どもの一人暮らしを実現することができますか?

だれか教えて下さーい!

「道草」公式サイト