強度行動障害と言われている息子とのカオスな日々を、私は記録を取り続けてきた。
最初に記録をつけたのは、病院で開講されていた「親訓練」という研修に参加したとき。今から27年ほど前、肥前式と言われる研修で学んだ。

研修を終えてしばらくは記録もつけてはいなかったが、養護学校(現在の特別支援学校)で小学部から中学部に進学後、支援課の先生の指導のもと記録再開となった。

学校の卒業後は、記録用紙は変化しつつもクリニックの心理士に指導、分析、可視化してもらいながら記録を続け、息子との暮らしを親として少しでも明るいものにしようと自分なりに考えてきた。
そしてこの記録は現在も続けている。

専門家ではない母親視点ではあるが、これまでの軌跡を自分のためにも振り返ってみたい。

※写真は、だいたいその時期の平均的な状態のもの
今は利用していない事業所もあるので、事業所名などは消しています。

小学部から中学部進学
市内ですでに、大変な子と名前は知れ渡っていた

この写真は小学部6年生の時の連絡帳。この頃の唯一の記録であり、先生とのコミュニケーションのためのツールとなっていた。

どの記載を見ても、作業などのわかりやすい活動が少なかった印象。
当時は破壊行動もえげつなく、多分作業に関わる道具を用意することさえ大変だったはずだ。

中学部になると、クラスの担任だけではなく「支援課」の先生が介入となり、担任の先生と連携しての支援となった。先生達はかなり頑張ってくださっていた。
下の写真は、その頃の記録。

在校中は先生が記録を取り、帰宅後は私が記録する。睡眠時間(寝てくれないけど)は記録は取らないことになっていた。
今思うに、睡眠中の記録までとなれば、昼夜丸一日に書き込まなければならないくらい、夜中の脱走や他害や破壊、奇声も凄かった。

また夜中にトイレの回数が半端なく、その中のほとんどは脱走のため、親達の隙を確認するものでもあった。
数字は記憶に定かではないが、問題行動の強度を数値化したものと思われる。

中学部に入った時から、夏休みに3日間だけの登校日ができた。その時の記録。
当時は放課後等デイサービスなどもなく、親は働くこともできずに毎日24時間子供と対峙していた。

この記録の内容については、今もその時のシーンを忘れることはできない。
止めてしまった左右最前列の車の運転手さんの、道に這いつくばる私たちを見ていた表情が私にも見えてしまったこと、大渋滞の真ん中でも、この子が死ぬなら私も死ぬと本気で思ったこと、私の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちていたこと、周りにはギャラリーも集まって、近所の子供達も心配そうに見ていたこと。

息子に集中しているはずなのに、まるでもう一人の自分が周りを見ていたような状態だったことは、今も不思議でならない。

この後なんとか息子を道路から剥がし、家に連れて帰った後、私の体は弛緩して指先すら1ミリも上げられなくなった。

こんなことが何度も何度もあった。

高等部へは進学せず、施設難民から現在の事業所へ

中学部を卒業してからは、いくつかの福祉サービスを使いながら1日をやり過ごした。その間も利用を断られたり、契約が自然消滅していたり、迷走の時期を過ごすこととなった。

下の2枚の記録は通所が叶う前年度(平成22年、23年、当時18歳)の時のものである。

この頃は脱走については、かなり頻度は落ちていた。本人が脱走しなくなったわけではなく、親が1秒も気を抜かずに阻止し続けていた。その見返りにドライブをすることもあったが、車中でも他害や車破壊が起きることが多く、ドライブの頻度も多くはなかった。

△トイレ、脱走を伺う行動 ●外出要求 ×他害 ✖️強い他害
黒く塗り潰されているのは睡眠時

この記録の方法はクリニックにて教えてもらい、事業所や福祉サービスを受けている昼間の時間以外で、在宅している時間に記録をつけた。

本人もさることながら、私自身の睡眠時間も2時間を切ることが多く、この記録を見るとその理由がわかる。

とにかく脱走の機会を狙っているので、こちらもおちおちと眠ることはできない。
ちなみに不覚にも目を覚まさなかった時に、夜中に警察から電話があって「保護しています」と連絡が来たこともあった。

この頃になると、行動援護を安定して利用できる事業所が2箇所できた。他にも事業所はあったが、やはり難しかった。

その2箇所は支援の質が高く、息子のように重い障害を持っている利用者が集中してしまっていた。それだけ、重い障害の利用者を引き受ける事業所は少なく、それは今も変わらない。

その2ヶ所の中のひとつの事業所に、生活介護の利用希望を出した。
後にその事業所への通所が叶い、今も元気に通っている。

上は平成26年、22歳になり、希望した事業所に通所が始まり3年ほどが経った頃。

通所に関しては、私自身が通わせたいと思っていたこと、事業所が強い意志を持って受け入れてくれたこと、またクリニックの心理士が、過去に日中一時などで利用してきた事業所毎の分析から、この事業所が本人が一番安定して利用できているというところから決めた。

この事業所は、親ではなかなかできないことを子供達に経験させてくれている。
コロナ前は宿泊もある旅行に連れて行ってくれて、この記録にもあるが、かなりの準備をして決行してくれて、親も驚くほどに本人も楽しんでご機嫌で帰ってきた。

ホテルでの会食も叶えてくれた。親も一緒に参加したことがあるが、これほどまでに重い障害を持った利用者達が、楽しんで笑顔で食事をしている姿を見て涙が出るほど嬉しかった。

支援の力ではあるが、それぞれの信頼関係が結ばれていることが見てとれて、それも大きな理由であると理解できた。

ちなみにそんな中にも、短期入所として利用していた別の事業所から断られたことも記録されている。
理由は、入所の利用者さん達が集まる食堂の電灯を、一瞬のうちに次々に外して叩き割ったことにある。
その前にもここで、夜中に脱走して警察に保護されたことがあったが、この時はさすがに入所者の方を危険な目に合わせることはできないという理由で、こちらも納得しての契約終了となった。

下は令和2年。年齢は28歳。
この頃になると、記入の仕方も睡眠時を塗り潰すのが面倒になって、ついに定規も使わずに線を引いている。

▲パニックや泣き真似、奇声など ×他害 ✖️強い他害
・・・・・夜中起きている時間

夜だけではなく、昼間も飛び出しの機会を狙うトイレの回数が劇的に減ったため、昼間のトイレの記載はしなくていいということで、記録内容も随分とシンプルになった。

学校時代から様々なツールを使うことが苦手だった息子に、事業所の支援の中で、息子自身が描いた絵が採用されてから3年ほど経った頃。
この絵を使った支援は、息子にとって実にビンゴな支援方法となった。

その支援については、過去の記事で書いている。

現在令和5年。年齢は31歳。
それまでのここ2年ほどで、記録内容がさらにシンプルとなった。睡眠時間が随分と安定してきたおかげで、私の睡眠も当初よりも長くなった。

今も気は抜けないので、息子が起きると目は覚めてしまう。結局は、すっかりそんな体になってしまっている。

何が息子をここまで変えたのか

現在は障害を持っている人たちを支援するにあたり、自己決定権が重要と言われるようになった。
実に当たり前のことだが、それでもいまだ実現されていないところの話も聞くことはある。

息子が通う事業所は「本人がどうしたいのか」ということを常に考えてくれている。支援者はその都度変わっていったが、その度に「ひろきくんの言葉を解りたい」と言ってくれた。
そこから生まれた信頼関係が、きっと息子を救ってきたのだ。

ただ、闇雲に「理解しよう」としても難しいだろう。そこにしっかりとした専門性を持ったリーダーの存在と、本人を中心に支え合う、支援側のチーム力がなければ、疲弊と離職につながる。
それを乗り越えるためのシステムは必須だ。

息子の場合、支援者達は皆で同じ方向を向きながら支援してくれていた。息子が何を言わんとしているのか、たとえ理解できなくても解ろうとしてくれることに、息子自身も気付いたのだろう。

問題行動が激しかった頃、自分の思いを周りに伝える術を知らず、ダイレクトに通してしまおうとすることで、周りとの衝突を起こし、想いが叶わない事態まで引き起こし、どうしようもなくて感情が爆発したまま行動がハチャメチャになっていたのだと思う。

今そのハチャメチャが起こらないのは、時間は掛かったが支援の中で、自分の思いを伝える方法を知ったこと、そこに生まれるコミュニケーションが楽しいこと、困った時に人に助けてもらう方法を知ったこと、今も生きていく力を学んで身につけようとしているからではないか。

正直、今の支援からまた離れることがあれば、きっとまた元のように戻ってしまうだろう。息子は、自分を囲ってくれる理解してくれる人たちなしでは生きていけないのだ。

息子が相当に大変だった頃に受け入れを決めて、息子自身の生き辛さを紐解きながら、今の支援に繋げてくれた支援者の一人の、まさにこれが息子と私たち家族を救ったのだという言葉がある。

⽀援者は「専⾨性」と「関係性」と「⼈間性」この三つのどれが⽋けてもいけないと思っている。

この精神を持って支援してくれる人たちの中であれば、きっとどんなに障がいが重くても、たくさんの笑顔と生きていることの楽しさを感じることを、誰もが実現できるのだと思う。