特別支援学校に通う子供たちの進路というと、小学部、中学部、高等部と進み、その後の事業所や施設を選択することが、親の一番の悩みどころとなる。
高等部になると、学校で実習を重ねながら会社や福祉事業所とのつながりを増やし、本人と相性が良さそうなところを探しながら、就学していた年月よりもずっと長い時間を過ごす場所を見つけることになる。
ただ、息子の場合は障害の重さと問題行動の激しさから、悩みに悩んで高等部進学の段階からリタイアした。
紆余曲折の進路
高等部進学を断念したのは、学校のシステムが息子には合っていないと思ったからだ。
高等部の実習は、さまざまな事業所などに通いながら、その実習先のスケジュールに則って行動する。
そうして卒後に向けて経験を積んでいくわけだが、地域の事業所での息子の受け入れはどこも難しいと思っていた。1日でクビになって帰ってくる想像しかつかない。
実習の短い期間で、事業所との関係性を作ることは息子の場合難しい。支援側に理解してもらうにも、息子がその状況を理解するにも、かなり時間がかかる。そもそも、それより過去に利用した事業所でも、支援が難しいと伝えられ、謝罪と弁償の上で拒否された経験がすでにあるので、ある意味こちらもかなり慎重になっていた。
多分実習には行かず、学校内で先生が付きっきりで別メニューの個別対応になるだろう。結局、進路については外部での実習ができないことで、親が探すことになるというのは分かっていた。
ただ、完全在宅は本人にとっても良いわけがなく、何も考えなしに高等部進学を辞めたわけではない。
実は、卒後の当てがひとつあった。これがなければ、高等部進学についてはもっと悩んでいただろう。
中学部の時に見学をした施設で、その理事長の理念と重度障害を持った人たちへの想いに感銘を受け、中学部の間に短期入所の契約をして、既に利用を開始していた。
そこでは理事長が毎日現場にいて、息子と時間をかけて信頼関係を作ってくれたことで、本人がなんとか利用できるようになっていた。
それが、私たち親の心の拠り所ともなっていた。
中学部卒業後に、その事業所を利用することを決め、毎日通えたことが本当に嬉しかった。
ただ、理事長との信頼関係は続いていたものの、一人の利用者との関係がどんどん悪くなっていった。そのことで、問題行動の激しいはずの息子が静かに動かなくなり、怯え出したことで事態は変わっていく。
理事長には訴えていたが、なかなか改善されていかないことで、息子のメンタルを考え、またここを離れる決心をした。
中学部を卒業してわずか2年目。17歳だった。
退所を決めたはいいが中学部卒業の時とは違い、これから先が全く見えなかった。何をどうしていいかわからない状態に陥ったため、誰かに相談したかった。
同級生達はみんな高等部への進学を果たして、誰に相談することもできない。こちらの都合で卒業した学校に、今更相談するわけにもいかない。
身近な人に相談できる人など誰もいなかったし、情報を得る手立ては、今のようにSNSで入手なんてできない時代。
ちなみに相談の専門家というと、当時は今のように障害者の基幹相談や相談支援事業所などはなく、当然相談支援専門員もいなかった。
その機能全てを「委託相談」という事業が担っていた。
その委託相談を探し、2ヶ所目にして運命の相談員と出会うことになったが、その縁はすでにつながっていたことは、この時は気付いていなかった。

つながっていた縁
平成18年に始まった福祉サービスの行動援護を、その年に3ヶ月役所に通って申請を通してもらった。当時は行動援護はなかなか申請が通らないことで有名で、役所に通い詰めて完全に面が割れた頃、ようやくの利用許可が降りたわけである。
息子はその時、14歳。中学部2年生だった。
行動援護とは
行動に著しい困難を有する知的障害や精神障害のある方が、行動する際に生じ得る危険を回避するために必要な援護、外出時における移動中の介護、排せつ、食事等の介護のほか、行動する際に必要な援助を行います。
障害の特性を理解した専門のヘルパーがこれらのサービスを行い、知的障害や精神障害のある方の社会参加と地域生活を支援します。
ワムネットより引用
今度は、利用申請を通してもらったはいいが、行動援護を受けてくれる事業所が地域にはなく、連絡しても速攻で断られるのが落ちだった。それくらい、息子は支援が難しい子として有名だった。
そんな中でも、居住地域から少し離れていたが、受けてくれる事業所が現れた。その事業所とは今もつながっていて、そこのヘルパーさんが後日話してくれた。
「実はひろき君のことは、一緒に過ごしたので昔から知っていました」
えっ?いつ??
その時すっかり忘れていたが、息子が小学部の時に「何かの時に相談できるように、委託相談に登録をしておいたら?」という学校の先生の勧めで、当時はまだ市内に一ヶ所しかなかった委託相談のある事業所に息子を連れて赴いた。
私が面談中は、息子はその事業所の支援者が見てくれていた。
その後は登録していたことすらも忘れていたが、この支援者の言葉からある一つのことを思い出した。
そうだった。息子はその面談の時もやらかしたんだった。
部屋にあった作業に使っていたというドライヤーを、ものの見事に分解してしまったのだ。
あの時、支援者は「大丈夫ですよ。止められなかったのは僕たちなんで・・・」と言ってくれたのだった。そして、なんとその時の支援者こそが、行動援護を受けてくれた人だった。
あの時ひろき君と一緒にいたから、ぜひ受けたいと思いました・・・と。やらかしに付き合わされたのに、断るどころかこんな奇特な人がいることに驚いた。
それにしても、行動援護を受けてくれた事業所と委託相談は運営元が同じ法人だったと、この時になって初めて気付くという、我ながら何とも間抜けな話だった。
つまりこの法人とは、小学部の時に委託相談に登録をしていたことで、中学部の時に行動援護を受けてもらった時にはすでに、実はもう繋がっていたということだ。
そして登録から長い年月を経て、今度こそ相談員さんとつながったことで、どうしていいか分からなかったこの先を支えてもらう日々が始まった。

委託相談員との二人三脚が始まる
委託相談員のNさんは、駆け込んだ私の話に共感してくれながら、これから先を一緒に考えていこうと言ってくれた。
何をどうしていいか分からなかった私の中に、漠然とではあったが、少なくとも希望と言えるようなものが見えた気がした。
その瞬間、一人で戦うしかないと思っていた私は、多分孤独ではなくなったのだと思う。
目標は、通える事業所0の状態から支援してくれる事業所を探すこと。最終的には、一つの事業所に毎日通所できるようになること。
その時はすでに、苦労して申請を通した行動援護はしっかり利用できていて、委託相談員さんより先に、この法人のヘルパーさん達が息子と関係性を作ってくれていた。
そのヘルパーの誰もが、専門性もあり、人間性も良く、色々やらかす息子であるのに真剣に向き合い、時間をかけて外出の楽しみを教えてくれていた。
息子にとっても、ヘルパーさん達は年も近いことから、友達や兄弟に近い感覚もあったかもしれない。
そんな行動援護で見せる息子の笑顔が、私の中で一つのことを決心させることになる。
私は委託相談員のNさんに、この委託相談とヘルパーステーションを運営する法人が同じく運営する、生活介護事業所に毎日通うことを目標にしたいと伝えた。
Nさんは納得したように頷き「お母さん、頑張りましょう!」と言ってくださった。
生活介護事業所とは
障害者の日中の時間帯の生活支援を担うほか、運動・リハビリ、生産・創作活動等をサポートする通所施設
ワムネットより引用
希望するこの法人の生活介護は、すでに定員がいっぱいだった。そもそも制度上、この事業所では高等部を卒業する年齢でなければ生活介護は利用できず、17歳の息子は日中預かりの日中一時サービスしか利用できない。
しかも、日中一時にも利用時間の制限があるので、毎日の利用は不可能だった。
Nさんから、目標達成までの期間を制度をうまく利用して、他の事業所も利用しながら在宅を減らしていこうと提案された。
Nさんとの二人三脚が始まった。
つながり続けた糸
息子は人との関係性を作ることに時間がかかる上、支援が難しいと言われ続けていたおかげで、親としてもかなり不安はあった。
しかし、委託相談員Nさんのすごいところは、まず私たち親子を事業所に繋げる前に、Nさん自身が先にその事業所と関係性を作ってしまうところだ。
その上で見学を提案され、Nさんと私、またはNさんと私と息子の3人で事業所を訪れる。
今思えば、Nさんとの関係性から事業所側も多分断り辛かっただろうし、速攻で「支援無理です!」とは言えなかったかもしれない。
見学を重ねながら、日中に通うことができそうな事業所を、毎日通う目標に挙げた事業所を含めて、何と3ヶ所も確保できた。
ただし、どこも居住地からはかなり遠く、親が送迎となることから親にとっても厳しいことは事実。しかし、そんなことは言っていられないと思った。
それにしても、Nさんの持っている情報量の多さと事業所に訴える場面は、見ていて人ごとのように心底凄いと感心した。
問題はその後。まず息子が通うことができるか。事業所側が諦めずに向き合ってくれるか。
制度上で通所に使える時間を、受けてくれた3ケ所の事業所で何とかうまく組み立てて、毎日どこかの事業所に通うように計画を立ててもらった。
1週間の間に3ケ所の通所事業所を使うことは、私もかなり不安で心配だった。けれど、今はそれしかないという思いもあった。多分、Nさんならなんとかしてくれるだろうと思っていた。
当時はNさんに頼り切ってしまっていたけれど、一人では何ひとつできなかっただろうし、何より常に相談できる人がいるのは心強かった。
息子が混乱しないようにと、Nさんはその日通う事業所がわかるように、毎回スケジュール表を作ってくれた。
また3つの事業所同士が同じ方向を向いて支援していくために、共有の場として細やかにケア会議を開き、定期的に聞き取りもして、息子が継続的に通えるように支援側にも働きかけてくださった。
Nさんから渡されるスケジュール表には、いつも付箋が貼られていた。
そこに書かれていた一言が、いつも私を励ましてくれていた。

そしてNさんは、息子が夜中も問題行動を起こすことで、毎日2時間を切っていた私の睡眠時間に「お母さんを寝かせてあげたい!」と短期入所の事業所とも繋げてくださった。
息子は、17歳から多くの支援者達と繋がることになり、それからその3つの通所事業所は、息子の支援を諦めることなく頑張ってくださった。
息子の問題行動の激しさが原因で、ある事業所は担当が変わることもあった。破壊行動も激しく、私が謝罪して弁償について問うと、これは支援に問題があったからと弁償は必要ないと言ってくれたところもあった。
短期入所では、夜中の飛び出しや警察保護で何度も呼び出されたし、支援の応援で夜中に呼び出された支援者もいた。断られた事業所もあったが、頑張り続けてくれた事業所もある。
そうやって日々を重ねる中に、息子自身にとって信頼できる支援者が少しずつ増えていった。壮絶な中でも断わることなく、3つの事業所は通所を受け入れ続けた。
しかし息子自身混乱がなかったといえば嘘になるかもしれない。それでも息子なりに受け入れて、息子なりに頑張った。この経験があったから、今の息子があると思える。
Nさんと出会うまでは、繋がった支援の糸は切れていくのが常だった。そもそも繋がることなく断られるなんてザラだった。支援を断られるたびに、絶望を感じていた。
けれど、Nさんが手繰り寄せた糸の中には、こうして繋がり続けたものが残り、絶望だらけだったその先に、光があることを信じる勇気をもらえた。
そうして、目標としてきた「ひとつの事業所に毎日通えるようになる」ということが、ようやく叶う日がやってくる。
目標を達成!掛かった年月は・・・
19歳になる年に、それまで日中一時しか利用できなかった事業所も生活介護での受け入れとなり、サービスを利用できる時間も増えた。
その間、繋がった行動援護や短期入所では断られることも何度もあったが、その3つの通所事業所は断ることなく支援し続けてくれた。
そしてある日、希望をしていた事業所のリーダーが、事業所の支援者を集めて宣言したと聞いた。
「ひろき君はウチが受け入れる。みんなひろき君に付こう。彼が何でも教えてくれる!」
こうして息子は、希望していた事業所に毎日通うことを叶えることができた。2ヶ所の事業所も、快く送り出してくれた。
息子が17歳から目標を達成するまでに、すでに5年が経っていた。
息子22歳の春だった。
それまで歩んできた年月は、正直体感的にすごく長く感じていた。いつになったら目標が達成できるのか・・・ずっと不安の中にいた。
それでも心折れなかったのは、Nさんの伴走があってこそだった。

明日を諦めない
この5年の間に、委託相談は地域生活支援センターと改名され、それからさらに障がい者基幹相談支援センターへと移行し、自立支援法から総合支援法に施策が舵を切ってから、相談支援の業務内容も少しずつ変わっていった。
正直言って、Nさんのマネジメントは現在の相談業務内容からして、やりすぎなくらいだったと思う。けれど、そのくらいしなければ目標は達成できなかっただろう。
希望をしていた事業所に、毎日通所するという願いが叶ったこと。
その目標に向かって、伴奏し続けてくれた相談員さんがいたこと。
5年間の間、諦めずつながり続けてくれた事業所があったこと。
私は忘れない。
目標達成から暫くして、Nさんは相談支援の仕事を離れていった。
Nさんの相談支援という仕事をしていた晩年に、明日を諦めないことを伝え、つながり続ける糸を残したということを覚えていてくれたらいいな・・・と思う。
絶望は孤独から作られると思う。
一人で頑張るしかなかったことを、一緒に頑張ろうと伴奏してくれる支援者がいれば、困っている当事者や親達は孤独から救われる。
孤独から救われて初めて、明日を諦めない勇気を持つことができるのだと思う。

2025年1月23日 at 9:17 AM
鳥取の信原です。
Nさん、今はどうされているんでしょうか。
最後の4行が、全てなのかなと思っています。
ご本人の支援にばかり目が行きがちですが、ご家族の日々の努力があることはあまり認知されていないように感じます。
保護者さんもホッとできて、「ふ~っ」と一呼吸おける時間が必要です。
ご本人さんと同じように、保護者さんも安心できる関係(繋がり)、環境が大切なんだと思っています。
そんな風なことを思いながら、読ませていただきました。
2025年1月23日 at 5:18 PM
信原さん、ありがとうございます。
Nさんとはその後、お会いすることができていません。
先日福祉の方、地域、当事者の方にお話しする機会があり、Nさんのこともお話しました。
Nさんが直属の上司だったという相談支援専門員さん、Nさんと関わった当時ヘルパーだったという相談員さんが、Nさんに会いたい、Nさんにこの話を教えたい、Nさんのようにありたいと言われて、Nさんは私たちに色んなものを残されただけでなく、支援者にも残されたんだと知りました。
この職を離れた理由は知りませんが、とても残念ではあります。でも、きっとどこかで活躍されているでしょう。
いまだに家族のリアルが伝わっていかない現状、本当にもどかしいです。
「一緒に住んでいるということは、家族で見れているからでしょう」という言葉に、「誰も見てくれないから家族で頑張っているんです」と返事したと、あるお母さんの話です。
本当に・・・日常に安心できる繋がりがあって、どの家族もホッとする時間を持てる、そんな明日を願います。