異色の経歴を持ち、福祉への思いを今も貫き通す人 「増本康弘さん」にインタビュー
増本さんの福祉への熱い思いはスゴイ!優しいお人柄、柔らかい雰囲気と仏様のようなビジュアル、けれど人を思い、障害者と健常者を繋げるためにずっと今も走り続ける、熱く強い意志を持った人でした。
福祉の世界に飛び込むきっかけはなんだったのですか?
中学生の時、当時「特殊学級」と呼ばれていた主に知的障害の方々への支援学級の子達と、ちょっとしたきっかけで仲良くなって、昼休みとかよく遊んだりしていたんです。でも、彼らと遊ぶことで、からかわれたり、馬鹿にされたことも度々ありました。
それでも、彼らと一緒にいることがすごく心地よくて、周りの目は気にせずに遊んでいました。
高校に進学が決まって、その子達とは離れることになったのですが、別れの時に「優しくしてくれてありがとう」と涙しながら言われたんです。
すごく嬉しかったんですが、でも自分は普通に接して、私自身も楽しく過ごしてきただけで、そこまで感謝されることでもないのに・・・と思ったりもしました。その時に、彼らにはごく普通に接してくれる友達がいなかったんだと気付きました。
それを「何かおかしい・・・」と思ったことがきっかけになったんだと思います。
そんな経験から福祉の道に進まれたんですね
そうですね。高校に入り、大学進学を考えている時『社会福祉学科』という名前が目に飛び込んで来て離れなかったんです。それで、日本福祉大学で学ぶことを決めました。
高校3年の時、受験勉強の傍ら一人暮らしの高齢者のお宅にボランティア訪問したり、重症心身障害児施設(当時名称)の見学、知的障害者授産施設(当時名称)で実習、児童養護施設に飛び込み訪問してボランティア実習をさせていただく中で、ぼんやりと将来のイメージを作っていってた感じです。
大学で「特別養護老人ホーム」の実習の時、担当になったおばあさんが「背中が痒い」と訴えられたことがありました。その時、おばあさんにとっては世の中のどんな重大な事件なんかよりも、背中が痒いことがご本人にとって一大事で重いことなんだと気付いた瞬間があって、一人一人の気持ちの重さみたいなことを考えさせられました。その時のことは今でも鮮明に覚えています。
また、知的障害者更生施設(当時名称)でも実習を行い、軽度の方から重度の方まで、様々なハンディを抱えながらも、今を生きている姿を目の当たりにしました。
そうやって現場を重ねながらも、ある考えが湧いてきました。
『障害者と健常者は、一緒に働くことはできないのか?』
現実の会社経営や現場を見たわけではないので、当然理想論とは理解していました。でも「考えたり挑戦するのは俺の自由だ!」とか息巻いていたような学生時代だったかな(笑)
もう一つ、学生時代に友人たちと飲みながら福祉について語り合う中で、思ったことがあります。
『この世の中から、福祉という言葉がいらなくなる社会こそ、本当の共生社会だ』と。
だから、私は今でも『福祉』という言葉をあまり使いません。究極の理想だと思います。私が生きているうちにそんな世の中になることはまずないかと。でも、そこにどれだけ近づいていくかに挑戦していきたいです。
そうやって積み重なった熱い思いが、今のベースになっているのですね!卒業後からすぐ福祉の仕事に就かれたんですか?
大学在学中に、ゼミの先生から障害者の雇用問題に真剣に取り組んでいる団体があるが、そこでアルバイトを募集しているというお話を聞きました。当時バレーボール部に所属しており、アルバイトは難しかったのですが、すごく興味が沸いて、そこの団体にアポを取り訪問しました。
『愛知中小企業家同友会』の事務局長が対応して下さり、①中小企業経営者の任意団体であること②経営者が経営の勉強をしたり、経営環境を改善しようとさまざまな取り組みをしており、その中の一つとして、障害者の雇用等の促進をテーマにしている委員会活動もある、ということ等を教えていただきました。
アルバイトはできなかったのですが、オブザーバーとして当時の名称『障害者問題委員会』に参加させていただき、参加されていた経営者の方々と交流する機会をいただきました。
いつしか、こんな人たちと一緒に仕事がしたいと思うようになり、地元九州の『福岡県中小企業家同友会』事務局に、求人もされてないのに自ら会社にアポイントを取って個人面接をしてもらい、その日の内に採用が決まったんです。
それはすごい! そこでついに福祉の仕事が始まったのですね
いや、当時は福祉の仕事という位置づけではなく、経営者団体の事務局員として、研修会等の企画運営のお手伝いをするのがメインの仕事で、その中の一つが、『障害者問題委員会』(現バリアフリー委員会)の活動でした。だから、福祉関係の仕事というよりは、事務・企画等の仕事をしながら、少しずつご協力いただける経営者の方を探すというのがスタートでした。仕事量の比重から言えば、10%くらいの割合でした。
ここに就職して3年目、ある程度ご協力いただける経営者の方々が10名を超えた頃に、各地持ち回りで開催されていた同友会の『障害者問題全国交流会』を福岡でもやりたいと強く思うようになり、担当を任せてもらいました。2年に1度開催されており、福岡開催は初で、第5回目の交流会だったと思います。
もう、これが本当に大変だったんですが、全国から270名もの参加者に集まって頂きました! まだまだ力不足だったため、すごく苦労しましたが、やりきったときに嬉しくて嬉しくて、一緒に運営をしていただいた経営者の皆さんと、握手しながら大泣きしました(笑)
そして、全国に熱い思いを持って活動しておられる経営者の方々がたくさんいることがわかり、感動もたくさんもらいましたね。
やろうと思ったら本当にまっしぐらなんですね(笑)
でも、ここは5年で辞めたんですよ。
えっ? なにがあったんですか?
同友会事務局の仕事はすごく魅力的で、たくさんの経営者(人生の先輩)から学ぶことも多かったのですが、ここでは企画力や運営ノウハウは学べても、営業力が身につかないなと感じたんです。将来会社を立ち上げるかも知れないと思って。それで、たまたま知人から紹介を受けた大同生命保険株式会社で5年間保険の営業をしました。
5年間営業を学んだ後はどうされたんですか?
ある時、インターネットで求人企業を探していたところ、日本アビリティーズ社(現アビリティーズ・ケアネット株式会社)が福岡営業所をオープンするとの情報を見つけ、中途採用に応募しました。
実はこの会社、高校時代に知っていました。『敗北を知らぬ人々 成功したアメリカの障害者企業!(H .ビスカルディ著/伊東弘泰訳)』という本を図書館だったか・・・偶然に見つけ、感動した記憶があります。
本書は、40歳で障害者による障害者のための会社「アビリティーズ社」を創設したヘンリー・ビスカルディ氏の伝記です。
ぜひ、みなさんに読んでいただきたい本の一つです。
【本の紹介】本からの引用『生まれつき、短い切り株のような両足を持ったひとりの男が、四人あわせて脚は一本、手は三本という連中ばかりで会社をつくった。うす汚い空きガレージで始まった会社は、その後多くの困難に出会ったが、不屈の信念と闘志をもってのりこえ、ついに500人の身体障害者ばかりの会社に発展した』
~アビリティーズ・ケアネット株式会社HPより
『敗北を知らぬ人々 成功したアメリカの障害者企業!(H .ビスカルディ著/伊東弘泰訳)』本の内容はこちらから確認できます↓
https://www.abilities.jp/kaigo_iryou_fukushi_service/suisen_tosyo/book_biscaldi
何とか試験・面接を乗り越え、アビリティーズ・ケアネット株式会社の福岡営業所に入社できました。そこで福祉用具・リハビリ機器の営業をしながら、介護支援支援専門員、福祉用具プランナー、福祉住環境コーディネーター等の資格を取得しました。
こうして働きながら「会社の看板でなく、増本自身と付き合ってくれる人達と仕事がしたい!」と思うようになったんです。
確かに今の増本さんのまわりは、増本さん自身と繫がっている人ばかりで納得です。アビリティーズ社も通過点だったんですね
アビリティーズ・ケアネットには14年間お世話になりました。アビリティーズ最後の仕事として、福祉フォーラムジャパンのフォーラムの参加者募集・当日運営をさせていただきました。
辞めた理由は、自分がやりたいことは「地域包括ケア」・・・誰もが自分の住んでいる地域で安心して暮らせる社会を作ること・・・と確信したからです。
その後は、障害者福祉施設のデイサービスで現場の経験を経て、今の職場である「支援センターこころ」の管理責任者をさせていただいています。
学び続けて今にたどり着いた結果、地域包括ケアに現場でしっかりかかわれるようになったのですね
なりました。地域を巻き込んで、老若男女、障がいがあるなしにかかわらず、誰もが集まれる場所を目指しています。
グループホーム等、福祉施設を立ち上げるとき、近隣住民に反対されるって話しも聞きますよね。総論賛成各論反対は、常に人々の心の中にあることだと思います。でも地域を巻き込み根回しすることで、より実現しやすくなるのかなぁって考えたりしてます。
確かに。まぜこぜで地域に根ざせば、障害者と健常者も一緒に働けますね。きっと、これに行き着くための経歴を重ねられたんですね
28歳の時、「バリアフリーネットワーク」という異業種交流会を立ち上げて、毎月1回、一度の休みもなく15年間続けたんです。でも、世の中が少し変わってきたなと……ネット社会(Facebook等SNS)の台頭で、やりかたを変える必要性を感じました。それで7~8年休止してたんですが、新たに立ち上げたのが〜地域包括ケアを考えるボーダレスネットワーク〜『エブリワンズ・ストーリー』です。
エブリワンズ・ストーリーでは私もお世話になっています。ここでもたくさんの出会いがあり、お手伝いできないか?などの声も掛けて頂きました
そうなんです。これで世の中が変わるなんて思っていません。でも、志ある人達が月に一度集まることで、何かが始まるような気がしているんです。実際、毎回仲間達が増えて相互協力の話題があちこちで聞こえ始めました。今までは交流会で仲間を作ることが主でしたが、これからは交流会も残しつつ、研修会もどんどんやっていきます。すでに第一回の研修会のスピーカーも決まっていて、お互い学び合う場として進化していきます。楽しみにしていて下さい!
※「エブリワンズ・ストーリー」は増本康弘さんのFacebookで確認できます。地域包括ケアに興味のある方は、ぜひチェックしてみて下さい。新たな出会いから行動につながる可能性があります!
様々な職場を経験して、現在の職場が最後となりそうですね。それでは現職の「支援センターこころ」について教えて下さい
こころには4つの事業所があります。またNPO法人も立ち上げて、地域コミュニティセンターとして地域の人達の場所作りも行っています。
事業所について簡単に説明すると、介護保険事業所に「介護センターこころ(訪問介護)」「こころの家尾仲(小規模多機能型ホーム)」があり、障がい福祉サービス事業所に「相談支援センターこころ(計画相談支援事業)」「支援センターこころ(居宅介護、移動支援など)」を運営しています。
こころは、日本健康会議から『健康経営優良法人2019』にも認定されているんですよ。
健康経営優良法人とは?
詳しくは経済産業省のホームページをご覧いただきたいのですが、健康増進の取り組みを実践する特に優良な法人を評価、認定する制度です。全国の法人の膨大な数の中から、わずかな法人しか認定されていません。
働く人が健康で元気でないと、地域でみなさんのために貢献できません。こころでは、職員の健康増進のためのジムもあり、24時間使うことができるんですよ。
ここで働く人がお互いを大事にするということは、支援を必要とする人達を大事にするということだと考えています。
なるほど。何よりも人を大事にするという姿勢が伝わってきます
こころは、男性スタッフも多いんです。それに、勤続10年前後やそれ以上、長年働いてもらっているスタッフが大勢いるんですよ。みんなでご利用者様の支援を全力で行っていますし、スタッフ同士も思いやりや助け合いのこころを持って、日々活動しています。
私も、この事業所の一員になれて、心からよかったと思っています。一緒に働いてくれる仲間も募集してますよ。
http://kaigocenter-kokoro.com/index.html
今回、増本さんにお話を伺うことで大きな気付きが二つありました。それは……
・障害者と健常者がともに働くことの模索は、もう既に何十年も前からなされてきたこと。けれどそれに、なかなか気付いてこなかったこと。
・地域のネットワーク作りのキーワードは「地域包括ケア」であること。
障害者と健常者がともに働くということについて、そんなに前から考えられていたことは私も知りませんでした。私は家族に障害者がいる当事者ですが、なぜそのことが情報として入ってこなかったのでしょう。
考えられることは、当事者は親も本人も生活することにいっぱいいっぱいで、特に子どもが小さい時の親はそこまで考える余裕すらないということでしょう。将来を考えることは重要なのに、いよいよその時にならなければ行動に移す体力すらないのです。
では、どうすれば少しの余裕と、将来に続く行動を起すことができるのでしょう。
それこそが、地域のネットワークが機能していて、人と人を繋げる役目を果たす場所、時間、そして味方になってくれる人達……地域を包み込んで安心感を与えてくれる「こころ」のような居場所があれば、応援をもらいながら頑張っていくことができるのです。
お互いが地域を包み込むことで、増本さんがおかしいと思った、あの中学時代の友達のような差別をされる子どももいなくなります。障害者と健常者がともに暮らして仕事もする、そんな世の中の実現は、夢ではないのかも知れません。
そして、そのために人と人を繋げようと頑張る人達が確かにいる。それを忘れないようにしたいと強く思いました。
これからの希望が持てる、素晴らしいお話でした。増本さん、有難うございました。
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