まだ平成だった2年前の2月。夜の街を、ある書店から駐車場までの往復を歩くということを、月に3~4回、それを約3ヶ月間やったことがある。
でも、その書店まで、駐車場までの道中、別に途中でカフェに寄る訳でもない、デパートで買い物をするでもない、ただただ歩くだけの時間がめちゃくちゃ楽しかった。
もう一回書くけど、ある書店から駐車場まで。約15分にもならない時間、それを往復歩くだけの話。
実は、旦那に頼んでライティング講座なるものに通うことになった、その3ヶ月間の話である。
この数年前から、旦那は、夜に家にいてくれることが多くなっていた。その数年より前なら、絶対に実現していない。
旦那はきっと、私のために家にいてくれるようになったのだと思う。
私達は重い障害を持った息子と暮らしている。一時も目を離せない、我が家にとっては日常で、きっと他の人にとっては非日常の毎日だ。
鈍い私には自覚がなかったのかもしれない。もしかしたら疲れた顔をしていたかもしれない。しかも息子が事業所に通所するとき、送迎する自家用車で私の運転では、息子のパニックで車が危険極まりないことも多かった。
送迎の車のハンドルを旦那が握るようになって、私の時より問題行動は少なくなった。けれどそうなったことで、旦那は息子の事業所の送迎を必ずやらなければならなくなった。
でも旦那は、そのことを拒否した日は1日もなかった。ただ、仕事の効率は恐ろしく悪くなった。
何せまだまだ仕事も宴たけなわな時間帯に、事務所を出て息子を迎えに行かなければならない。
本当は、もっとバリバリ働けるのを、息子を優先してくれるようになった。
そのため仕事は持ち帰り、夜中まで作業をしている。
それまでは、旦那はほとんどが夜中に帰宅をしていた。
ほぼワンオペに近い育児をしていた私は、目が離せないことから息子が学校や事業所に行っていない在宅の時間は、ずっと一緒に離れることなく過ごした。
学校時代は、今のように放課後等デイサービスなどなかった時代である。長期休暇は丸一日、ひたすら息子と向き合っていた。
そりゃ息子も飽きる筈だ。四六時中母親に張り付かれて面白いわけもなかろう。
1ミリでも私に隙が生まれれば、とっとと家から飛び出そうと狙っていた。
結局一緒に延々と散歩したり、ブランコに6時間付き合わされたり、一瞬の家からの飛び出し劇に一日中付き合わされたり、そうしながらも家事をして、ご飯を作って、飛び出しを防ぐために一緒にトイレにも入った。
私の体調が悪くなっても、学校や事業所の送迎にヘルパーを使ってはいけない決まりがあるため、たとえ高熱が出てもどんなにしんどくても、布団なんか敷いてなどおれないし、そんな中でもいつも通り息子を見ておかなければならない。
むしろ通学通所が私の体調でできなかったら、息子も休ませて体調が悪いまま一緒に過ごすしかないので、休養なんかできるはずもない。
こんな時こそ通学通勤にヘルパーを利用したいのに、本当に何かがおかしい。本当に助けて欲しい時に使えないサービスって、何だろう。
けれど、旦那がリビングに仕事道具を持ち込んで、息子の隣で仕事をしてくれるようになって、それまで年に2~3回行けたか行けないかの友達との飲み会などにも、今はもっと行けるようになった。
息子と対峙し続けてきた夜の時間がだいぶ楽になったところで、私は文章の勉強をしたくなった。
私はそれまで、ひたすら息子と向き合い続けて、その間取れたはずの資格も諦め、できたはずの勉強も行けず、楽しめたはずの食事会や娯楽も、すっかり諦めてしまっていた。
ずっと孤独は付いて回った。自分に自由が全くないことで、息子を恨んだことはなかったけれど、自分の自由な時間を、いつからすっかり無くしてしまったのか思い出すこともなくなってしまっていた。
そんな私が、文章を書けるようになりたいからと旦那に相談したところ、旦那は快く受け入れ、背中を押してくれた。
本当は別の文章を教える講座を狙っていたのだけれど、開講までにまだ2ヶ月もあった。
今やらなければ、きっと2ヶ月後はやってないだろう。
今やらなければという思いに駆られて探してみると、すぐ申し込める講座を見つけた。ある書店が主催するライティングゼミだ。
そうして私は、月に3~4回ほどの、平日の夜の講座の門を叩くことになり、私のいない時間に旦那が息子と向き合ってくれることになった。
その頃はもう、息子と対峙して26年の月日が流れていた。それまでの暮らしに慣れてしまって、夜1人で出かけても、目的以外には何かをしたいなんて感覚はなかった。
そもそも夜に、自分のためにひたすら毎日向き合っていた息子から離れること、そして1人で街を歩くことの発想すらなかった。
目的はライティングの勉強だから、当然それに何か別のイベントが付いてくる訳でもなく、毎回ひたすら車で街に出て、書店の周りの駐車場は料金が高いので、安い駐車場に止めて、そこから書店まで歩くのである。
ものの15分弱。
ゼミが終わった頃にはすっかり夜が更けて、デパートも商店も閉店して飲食店が賑やかさを増し、ご機嫌の人たちが街中で溢れている中をぬって、ひたすら歩いて駐車場に向かう。
驚いたことに、日本語より外国の言葉の方がよく聞こえていた。
時は一年の中でも最も寒い2月。講座終了は初夏になる5月。
その間、正月は終わっているしクリスマスなんかずっと先。
街の装いはイベントで華やかな電飾が飾られている時期でもなく、せいぜいバレンタインとホワイトデーの看板くらい。
きっと一年を通して見ると、時期的に華やかな街の雰囲気からは離れていただろう。
けれど、たった1人でその中を歩く私は、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
賑やかな街中を歩くだけでも、楽しくてしょうがなかった。
普段なら息子とご飯を食べて家事をして、世話をしながら飛び出しや問題行動が出ないように対応をする。
なかなか寝ない息子に付き合い、夜中やっと息子が眠ったのを確認して片付けをして、やっと自分のことをして就寝準備をする。
けれど、ライティングゼミの日は夜の街を1人で歩く。
誰とも話さないし、どこにも寄らないけれど、ただこの数回の夜に、自分のために外に出れることが嬉しくて、ただ嬉しくて・・・。
街がこんなに賑やかで煌びやかだったことを知らなかった。
それを知った、ただそのことが嬉しかった。
もちろん、自分なりにライティングの講座は頑張ったつもりだ。多分、文章はそんなに上手くならなかったが、書くバイタリティだけは付いたと思う。
旦那に感謝。お父さんと家で待っていてくれた息子に感謝。賑やかな街に感謝。そして、ゼミのスタッフの皆様に感謝。
今、私は「親なきあと」のための勉強会を主宰し、ものを書くことも多くなった。
現在COVID-19で自粛中ではあるが、それまでは会議や勉強会、イベントのために、夜に家を不在にすることが増えた。多分、旦那よりもそれは多い。
今はもっぱらオンラインでの活動になっているが、そんな今でも、旦那は背中を押し続けてくれている。
今の街の賑やかさはわからない。
でも、街ではないけれど、私の周りは信頼できる人たちで賑やかになりつつある。
この賑やかさの中では、私は今度は黙って通り過ぎることもなく、共に考え、行動できることに喜びを感じている。
コメントを残す