我が家のある地域は障害者が住みやすく、理解がある地域だと言われている。しかし、専門家の講師や当事者の家族を呼んで、講演や研修会を多く行うというわけでもなく、啓発に力を入れて勉強会をしている、というわけでもない。
福祉に理解がある地域、と名が知れて特別視されているような場所でもない。
しかし、市内では全く評判として届いていないのに、この地域はとんでもなくすごいことをやっていた。
なぜ他の地域で知られていなかったのかは、いまだに不思議だ。
障害者に理解があるのは、この地域に「特別支援学校があるから」というありがちな認識では済まされない。
学校と子供達の力が地域を巻き込んで作った、他ではあまり見られないことを、驚くほど自然にやっていたことが大きく影響していたと思うのだ。
■作り込まれた交流ではない「交流」
この地域には、実は学校が3つ並んで建っている。真ん中に特別支援学校、その両隣に小学校と中学校である。
このこと自体も珍しいことかも知れないが、その環境から当然学校間の交流というものが行われてきた。
もちろん交流とはどこの学校もやっていて、よく耳にする交流は授業の中で行われているようだ。例えばお互いの学校で出し物を見せ合うとか、図工の時間に一緒にもの作りをするとか。
大人たちが作り込んだ中で行う交流である。
けれど、この地域の学校はひと味違っていた。
小学校の裏門と特別支援学校の正門は向き合っている。この二つの学校での交流は、他の学校と同じように授業でも行われていたけれど、さらにそんな限定的なものではない交流が普段から行われていた。
給食の時間が終わると、昼休みの時間がやってくる。すると、小学校の裏門から子供達が正門を通って、特別支援学校の校庭にどどどっと押し寄せてくる。
そこで特別支援学校の子供達と小学校の子供達は、ぐちゃぐちゃに入り混じって遊びだす。
校庭にはたくさんの子供達の楽しそうな声が響き、授業の中では決して見ることのできない子供達の姿があった。
「交流」というのもおかしな話だと思わせるくらいの「普通に」遊んでいる姿を見ることができたのだ。
私も何度かその光景を目撃したが、障害を持った子供の親として、この「普通に」たくさんの子供達と遊ぶ我が子の姿を見たときは、本当に泣きそうになった。
普通に受け入れてもらえることの難しさを、普段から様々な場所で経験しているから、この光景は障害者のいる家族にとっては「普通」ではない。
しかし、ここでそれを「普通」のこととして遊んでいる子供達を見ると、ノーマライゼーションという言葉さえ吹っ飛んでしまいそうであった。
■話は子供から親へ引き継がれる
小学校の子供達は、家に帰ると親たちにも交流の話をしてくれていた。
実際、面識のなかった小学生のお母さんから「ヒロキ君のお母さんですね?子供から話を聞きました」と言われた時には驚いた。
子供から「今日ね、〇〇ちゃんという子と遊んだよ。〇〇ちゃんは地面を掘るのが好きでずっと掘っていて、一緒に掘って楽しかった!」と聞いたお母さんは、特別支援学校には〇〇ちゃんという子がいて、地面を掘るのが好きなんだな・・・と、姿は見ずともその子のことを知ってくれることになる。
そして、それが楽しい時間であったことも理解してくれる。
これらは授業の中の交流では、なかなかあり得ないように思う。子供達はどうやら、遊びの中でお互いを知っていくようだし、受け入れることも自然にやってしまうようだ。
障害者に対する理解は、大人たちの方が難しいと言われることも多いが、この交流の流れが親にも浸透していくことで、障害者も暮らしやすい土壌と地域性は育ってきたのではないか。
■引っ越したその日に挨拶をしに来てくれた子
障害を持った長男が通う、特別支援学校のある地域に住もうと決めたのは、障害者に理解のある地域なら、次男がいじめられずに済むのではないかという思いからだった。
実際次男は、長男のことでいじめられたことはなかった。
しかも次男は小学校から昼休み交流に行って、私は次男から「〇〇ちゃんはね・・・」と話しを聞く立場になった。
そうやって、そうか、親たちはこうして話を聞いていたのかと理解することができた。
引っ越したその日、2人の小学生の訪問があった。1人は斜め前の、もう1人はお隣に住む男の子と女の子。
別に示し合わせてやって来たわけではなく、それぞれにやって来てインターホンを鳴らした。
2人は表札を見て気付いたらしく「ヒロキ君のお家ですか?」と訪ねてくれた。
私は「交流で一緒に遊んでくれたの?」と聞くと、2人とも答えは同じだった。
長男と同じ年齢の子供達。学校は違うけれど、ちゃんと知っていてくれた。それが何とも嬉しくて、ありがたくて、ここに来て良かったと最初に思った出来事だった。
■先生たちの決断と子供達の進路
この交流は、先生たちの努力なしにはあり得なかっただろう。いくら昼休みの時間とはいえ、子供達が怪我しないように、トラブルを起こさないように、多分先生方は昼休み返上で子供達を見守っていたはずだ。
しかし、この交流によってある決断をした先生方もいた。しかも1人や2人ではなく。
「この子たちと向き合ってみたいと思ったから、特別支援学校への転勤の希望を出した」という先生方がいたのだ。
これにも驚いたし、嬉しかった。それにきっと「向き合ってみたい」という思いは、やはりこの地域性に影響を与えたのではないかと思う。
そして最近気付いたことがある。
私はこの地域で福祉関係の仕事をしていたが、そこでもその交流を経験してきたスタッフたちもいた。
そこで交流はどうだったかを聞いてみると、みんな「楽しかった」と答えてくれた。
そして、このスタッフたちは福祉の仕事をしているのだけれど・・・。
実はこの地域は、割と福祉の道に進む子たちが多いようだ。それがこの交流のお陰かどうかは断言などできない。しかし、私は少なからずとも影響はあったのではないかと思う。
しかも誰とでも「普通に」遊んでいた彼らは、今も「普通に」障害者を受け入れられているのだろうとも。
■なくなってしまった交流
けれど、この交流は今はもうない。時代が許さなくなったのかもしれない。
学校現場は、先生たちの労働範囲も量も半端ない。それにこの交流まで先生たちが担うとなれば、いろんな問題も起こってくるのだろう。子供達に何かあると責任の問題も出てくるし、余程おおらかな考えでないとできないことだろう。
むしろ、交流の続いていた時代が奇跡だったのかもしれないとさえ思う。
しかし、障害者をおおらかに受け止めることのできるここの地域性は、やはり学校と子供達が作り上げたところが大きかった。そして今もその力は続いている。
しかし、それが忘れ去られた時がどうなるのだろう。
さらに時代が進んで住む人も変わってしまった時、この地域性はどうなっているのだろう。
ただ、あの時の校庭の笑い声と子供達の姿をもう一度見てみたいと思う。
奇跡がもう一度、起きてくれないかと願う私がいる。
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