そもそもこの映画を観たいと決め込んでいた訳ではありません。
決め込んでいたのは、この日の二日前に親なき後をテーマにした、映画鑑賞とシンポジウムのイベントに参加することでした。

時に重度自閉症の長男が、部分日食という天体ショーの煽りなのか、ここのところの気圧の暴れ具合から来るのか、なかなか調子がおよろしくない日々を自分で耐え抜いていました。

ちょうどそのイベント開催日の朝っぱらから、長男は声を立ててゲラゲラと笑い続けていたんです。
嬉しくて、楽しくて、それで笑っている訳ではありません。
「わかる人にはわかる」辛い時に不穏に笑ってしまう彼らの特性でもあります。

開催が日曜日であったため、父親に長男を託して行く段取りはできていました。
けれど声を立てて辛そうに笑い続ける長男の顔を見ていて、こちらも辛くて切なくなるのです。

きついよね、でも自分でなんとかしようとしてくれているんだ・・・。
この日、感情が雪崩になって他害行為に繋がることはありませんでしたが、それは長男自身が“こらえる”という力を会得したからです。

それがいいのか悪いのかはわからない。
もしかしたらいっそ、崩れまくって暴れまくった方が、長男自身はスッキリするのかもしれない。
周りがそれを良しとしないし、問題行動なんて用語まであるくらいだし、本人も少なからずよからぬ雰囲気を感じとってしまう。
そして自分なりに、それと戦いながら必死にこらえようとする。

親なんて所詮、そんなことでオロオロするばかりです。
イベントのために家を出る時間が迫る中、私は切ない姿の長男を見守りながら隣にいることを決めました。

行けなかったイベントは、一緒に行くはずだった同じ親仲間の友人たちが「報告するよ〜!」と言ってくれたので、それを楽しみにしておきます。

普通に死ぬ〜いのちの自立
実はこれを観に行くはずでした・・・。
(埋め込みができなかったのでリンクを貼っておきます)
↓↓↓
http://www.motherbird.net/~ikiru2

奇跡的な時間と偶然が映画館へと背中を押したので

普通の主婦の間からも、なかなか自分の時間なんか取れないというセリフは当たり前のように聞こえてくるものですが、これが障害を持った子供がいたりすると、自分ひとりだけの時間だぞっ!て自分で認識できることは、もぅ奇跡でしかないんです。

ところが、できたんですね。やってきましたよ、奇跡が!これは手放すわけにはいきません。
祝日なんだけど、長男は事業所が開所していてそちらで頑張ってくれている。
旦那は自分の事務所で仕事。
私は仕事が休み!

自分のためだけに使える時間が、長男を事業所まで迎えに行くまでの、ほんの数時間できたではないか!

そして気にはなっていたけれど、きっと行くことなんかできないとあっさり諦めていた映画が、その時間の中にすっぽりハマって上映されている。

心の中で「いきます!!」と手を挙げた私。
一人で映画を観れるなんて!一人で映画を観に行けるなんて!!

映画を観れなかったことを、映画を観ることで挽回、というか、リベンジというか、もうなんでもいいや。

奇跡的な時間と偶然が背中を押してくれて、私は映画館へと向かったのでした。

いつも「解決」を見ない。親はいつも探し続けている。

前置き長くてすみません。ここから映画のことになります。

街の小さな映画館で、この短編映画は上映されました。
お母さんを演じたのは、実際にパートナーと血のつながらない自閉症の息子さんとともに暮らしている加賀まりこさん。

そして自閉症の息子の役は、ドランクドラゴンの塚地武雅さん。
彼は、演じるに当たって本当によく取材して自閉症の世界を理解しようとしてくれたことが分かります。いや、もう自閉ちゃんになってました。

あまり書いているとネタバレになるので、内容については公式サイトを見てくださいね。↓↓↓

https://happinet-phantom.com/umekiranubaka/

ネタバレを気にしてると言うなら、ここを書いていいのか分かりませんが(書いちゃいますが)このラストに色々感想が分かれるような気がします。

もう言っちゃいますが、すべて何ひとつ解決しない。

けれど・・・。
(この「けれど」が肝心なのです)

一見事態は悪くなったように見えるのですが、実はラストの先の「かもしれない」がたくさん想像できるのです。

この解決を見ないという現象は、悲しいことに福祉の中では当たり前で、困ったことの訴えや交渉ごとでも起きた時点から、山が動くまでとんでもなく長い時間がかかる上、両手をあげて「解決した!」と言い切れることに当たったことがありません。

いつも困っていて、いつも訴えている。自分たちの努力義務ももちろん負うけれど、これでなんの心配もなくなると思えるような状況になるのは、それこそ奇跡に近いと思ったりするんです。

障害を持った子供がいれば、親は自分が子供を見れなくなった時に、自分が死んだ時に、誰かに託さなければならない。
主人公の珠子さんもまた、そんな想いを抱えるお母さんでした。

公式サイトを見ていると、監督は母親の視点を大事にされていました。
それは珠子さんが言った一言でわかります。

実はこのセリフ、加賀さんや実際に障害を持ったお子さんのお母さんから話を聞いて、やっと理解して出来上がったシーンだったそうです。
監督もまた、必死で理解しようとしながら作品を作ったのでしょう。

その想いが溢れるシーン。

ショックが大きいはずの珠子さんがちゅうさんに言った言葉に、親である私も泣かされました。

「ちゅうさんがいてくれて、母ちゃん幸せだよ」

親がいなくなった後の不安を解決することは、実際には難易度が高いのです。
それでも今は、幸せは側にある。
それは、障害のある我が子を残して死ぬであろう親たちのまぎれもない思いであります。

親なき後は必ずやってくる。自分に幸せをくれた子供の幸せを願いながら、手を離すための場所を親たちは探し続けます。

物語は、優しく純粋なちゅうさんと、引っ越してきて友達のいない隣人の少年の交流がもたらした事件から、障害の無理解がもたらす壁と「受け入れる」より「排除」に向かう人々の姿が描かれています。

けれど、です。
かもしれない、なのです。

けれど
死んだ(ことになっている)チュウさんのお父さんが植えた梅が、きっと隣人家族を一番の理解者にしてくれる・・・
かもしれない。

けれど
グループホームの撤退を訴えている乗馬クラブのオーナー。
でも、言葉ではちゅうさんを責めるけれど、自分も本当は同じ立ち位置だと感じ始める。
それを自ら認められる日が来る・・・
かもしれない。

けれど
無理解な住民がちゅうさんの本当の姿を知ることができたなら、考えはそれまでとまるで変わってしまう・・・
かもしれない。

そして
隣人の草太は、ちゅうさんの最大の理解者となって、きっとちゅうさんのような人たちのことを普通に受け入れてしまう大人になっていくだろう。

実は重いテーマなのに、解決もしていないのに、見終わった後に優しい気持ちになれるのは

それはちゃんと、ちゅうさんを通して彼らの人としての純粋さや真面目さ、少し笑ってしまう、ホッとさせてくれる姿を描いているからだと感じます。

付き合ってみればわかる、近くなればなるほど面白くて素敵な彼らに、どうか気持ちを寄せて欲しいと思うのです。

彼らには不思議な魅力があると語った支援者がいました。
彼らといると楽しいと言った人がいました。
どうして彼らのステキなところがわからないのかなぁと言った人がいました。

無理解が引き起こすことは、実は理解することでたくさんの解決を見ることができるのだと思うのです。
いつまで経っても見ることのない「解決」は、本当は解決できるのだと信じたい。

この映画は、物語が終わった先の物語を皆が作るための課題をくれたのだと思っています。

みんなが理解しようとして、普通に受け入れることができたなら、もしこれからも解決できないことが続くとしても、それはそんなに問題にならないのかもしれません。

この映画は「昔はこんなこともあったんだよね」と、誰もが笑い合える日を待っている・・・そんな気すらするのです。