障害を告知されてから、大学病院に月に1回のペースで通い出したころ。やっと専門医につながって、ずっと担当医に診てもらえると頼りにしていた矢先です。2年もせずに担当の先生は、別の病院に移動が決まりました。

盲点でした。大学病院には転勤があったんですね。それからずっと、同じ医師に担当してもらうことの難しさを実感することになります。

小児脳神経外科医から小児精神科医へ

ということで、同じ大学病院の別のお医者さんに担当が変わりました。その新しい担当医は小児脳神経外科医ではなく、小児精神科医でした。

この先生も若い男性でしたが、前の先生のように元気でハキハキ話されるのとは少し違っていて、とても物腰が柔らかく、ゆっくりお話しされて、いつも笑顔のとても優しい先生でした。

やはり、障害に対しては専門ですから、こちらのどんな質問にも納得できる答えを下さり、当然息子の重い障害は見抜かれていて、そこで、先生はある提案をして下さいました。

「大学病院では10分くらいしかお話しできません。僕は医療発達センターでも診療を行っていますが、そこならゆっくり時間を取ることができますから、そちらに来ませんか?」

今にして思えば、先生の独断だったのではないかと思います。癒し系なのに熱い先生でした。そこで毎回40分ほど私の話しを黙って聞いて、その後にアドバイスをくれました。わたし自身のカウンセリングの場所でもあったんです。

その間に息子は、割と広い部屋の中で興味津々色んなものを見て回ったり、おもちゃで一人遊びをしたり、たぶん落ち着く好きな空間だったのでしょう。先生は、笑顔で息子を見守ってくれていました。

言語の専門家からはバッサリ切られた

ある時、先生に言語の専門家に診てもらうことを勧められ、センター内の言語訓練の先生に会いました。するとすぐ先生は息子を見るなり「あぁ、君はそんな物の見方をするのか」「お母さん、自閉症って知ってる?」と唐突に聞いてきて、私が「はい」と答えると「この子はね、知能が低過ぎて言葉なんかしゃべらないよ。訓練してもムダだから、もう来なくていいよ」と言われました。

言い方ってあるよなぁ……と思いつつも、今も言葉を持っていない息子の姿を、当時の言語の先生はズバリ言い当てたわけです。そう思うと名医なのかもしれません。

歯の治療、はじめての抜歯に2泊3日で完全トラウマ化

実はその頃通っていた通園事業に、地元の歯医者さんが障害児者の専門歯科医を連れてきて下さり、歯磨き指導を受けました。それをきっかけに歯科予防に通院を決め、しかもその歯科が発達センターの中にあったので、この二つの診療を一緒にできたのはラッキーでした。

小学生になるのも少しずつ見えだしたある日、なんと虫歯が見つかり、抜くしかないということになりました。歯抜はどの子どもにもハードルが高いものですが、障害があると恐怖心が健常の子より増幅されるとか、一度嫌な思いをすると大パニックにつながるという理由から、たった一本の歯を抜くために、説明を受けた内容はこうでした。

2泊3日の入院。施術は全身麻酔で行う。1日目はバイタルチェック。2日目が抜歯。3日目は問題がなければ退院。

チームは歯科医、麻酔医、小児科医。

小児科医が担当医で、随分と心強かったのを覚えています。

さて、1日目クリア。2日目いよいよ全身麻酔が効いて歯科手術室へ。抜歯は滞りなく済んだのですが、何時間もなかなか目を覚まさず、このまま起きてくれないんじゃないかと不安でした。

ようやく目が覚めると、胃の中に溜まっていた血が上がってきて、何度も吐こうとしました。でも、吐き出す方法がわからない。なぜなのか、この子達はこんなことすらできなかったりするんです。

上がってきた血を飲み込み、また吐こうとして飲み込んで、それが何時間も続きました。体が衰弱してヨロヨロになっても、また吐き出せなくて飲み込んで……わたしもどうする事もできなくて、涙を拭いながら息子の背中を擦るしかできませんでした。

胃の中の血が体内に吸収されてしまうのを待つしかないと言われて、やっと落ち着いたのは翌日の朝でした。

わたしのトラウマが消えずにいたその抜歯から数年後、お医者さんが「今回は頑張ってみよう!」と割れてしまっていた歯を全身麻酔なしで抜いて下さったときは、頑張ったなぁ、息子! 成長したなぁ! とかなり感動しました。

何てことはないかも知れないです。でも、この子達は飛び越えなければならないハードルに、毎回すごい精神力と体力が必要になるんです。だからこそ、たったひとつ飛び越えただけでも、本当に嬉しい。

それを一緒にやってくれるお医者さんがいれば、何にも増して心強いんです!

障害児者専門の歯科医など、ほとんど見当たらない時代でしたので、我が家は当時としてはラッキーだったのですが、遠い道のりを1ヶ月に1回の検診で、何かあってもすぐ予約も取れない状況ではありました。

もっと身近に、障害児者を診ることのできるお医者さんがいて、すぐ相談ができる距離であれば、もっと気付くのも早かったかも知れないと思うと、そんなお医者さんがもっと増えて、認知されて行けばいいのにと思うのです。

どうしても医療機関にはこだわっておきたかったんです。だけど……。

なぜ医療機関にこだわったかというと、障害児を専門に診れる医者なら、他にどんな病気が見つかってもそこ一カ所で相談できるし、なにより先生にも周りにも気を遣わずにすむからです。

診察を断られたり、嫌な顔をされたり、周りの人に怒られたり、親のストレスと本人がパニックを起こしてしまうことを考えたら、当時はそういう風にしか考えられませんでした。

そうしていよいよ、小学校が目の前という頃にさしかかり、相談事も増えるだろうと思っていた矢先、何と先生から退職することを告げられたのです。

青天の霹靂でした。しかもそのセンターは、本来は対象が病児、肢体不自由児だったので、担当医以外に小児精神科医はいません。

先生は不本意と言っていましたが、センターから去るように言われたのです。考えてみれば、毎回歯科では三千円ほどの支払いをしていましたが、小児精神科は三百円くらいでした。

もしかして邪推ではありますが、小児精神科は報酬の点数が低く、センターの経営としては維持が難しかったのでしょうか。

先生は遠方にある地元に戻り、自分に足りない部分をもう一度勉強するつもりだと教えてくれました。

すごくショックで、すごく残念で、すごく寂しかったけれど、先生を応援しますとしか言えませんでした。

先生は笑いながら「家族いるのに学生ですよ。医者って、失業保険は出るんですかね?」と冗談のように言われましたが、その日が最後でした。

それから以降、年齢的にも問題行動が少しずつ増えだす時期へ突入します。医療機関を探しまわり、さらには葛藤と挫折の時期が始まることとなります。

《つづく》