息子は、他害、自傷、破壊、飛び出し、奇声、激しいこだわり、繰り返す儀式、異食、睡眠障害・・・問題行動と言われるそのほとんどのカテゴリーを網羅していた。
そして何よりこちらの体力を削いだのが、1日に5回も6回も繰り返す飛び出し行動だった。
2秒目を離すとどこかへ行ってしまう。家の中の外につながっていそうな隙間をよく知っていて、四六時中そこを狙いながら、隙あらばあっという間に家を飛び出し、行方不明になってしまう。
私の足の速さは多分人並みど真ん中だと思う。しかし、父親の家系は足が速く陸上一家。
なんともそちらの遺伝子を濃く受け継いだ息子は、取り付けた鍵もなんのその、あっという間に壊して疾風の如く行方をくらます。
保護されるにも市内の警察署までも網羅する勢いで、追いかける道すがらに赤色灯が回っていたら、息子がその中心にいたりした。
朝も昼も夜も夜中も、これを繰り返されるのだから親はトイレにすら行けないし熟睡もできない。
家事も趣味も自分のための時間もへったくれもない。
常に追いかけて、常に訳が分からず息を切らし、常に疲れ果てて毎日毎日暮らしていたような気がする。
対応に追われると余裕がないし、気付いてもらえない孤独と戦っている
現場のカオスの中に親子で身を置いている最中、ゆっくり冷静に考える力など残ってなどいない。
いや、本当にあるわけがない。
大変な時にこそ考えるべきという話はよくわかるし、多分それは正解なのだが、何を差し置いてとりあえず、日々の生活は何とか送っていかなければならない。
そんな中に問題行動が勃発すると、結局親はその時間の「やらなければならなかったこと」の全てを投げ出して、全力で対応をしなければならなくなる。
全ての原因は「家庭にある」というよりも「生活にある」と言っていいと思っている。
生活とは、生きて活動することを言う。
問題行動を引き起こすパニックは、家庭の中というより、身を置く環境の全ての中において起こり、人々が普通にやり過ごしている時間の中で突然勃発したりする。
生活という時間の中には、日々起きて食べて寝る、それ以外にも多くの事象は秒単位で起きている。
その生活環境の中において、外からやってくる音、風、気象、物の配置、物の形状から色、そして家族や周りの人々の表情、言葉、行動、全てに至るまで、敏感すぎる彼らが生活していく上で、難なくそれをすんなりとやり過ごすことが難しい場合が生じてしまうことは、周りには理解し難いことだろう。
周りは普通にやり過ごしているのだから、なぜこんな問題行動が起きているのかなんて想像もできず、「親のせいだ」「育て方が悪い」と括られてしまうことは、正直かなり高い確率である話だ。
問題行動はいつも現れるわけではない。だが、まさに起こってしまっている現場を見てしまったら、そのイメージは強烈に残ってしまう。
彼らの本当の笑顔を知らない人が多いまま、まるで四六時中パニックを起こしているような印象から、周りは本人を拒否する、離れていくということが起こってしまう。
太陽のような笑顔を彼らは持っていることも、本当は知って欲しいのだけれど。
とにかく家族は追い詰められながらも、必死に頑張るしかない。
「自分の子だから」「人様に迷惑はかけられないから」
そうやって家族は、目の前の我が子の行動から、恐ろしく社会から隔離されたような孤独を抱えてしまう。
なぜ我が子だけが、と考え込んでしまう。
それでも疲弊しながら向き合い、現場で繰り広げられる重く積み重ねられていく経験の中から、それら行動の理由を時間をかけて紐解いていく作業をしていくしかない。
その理由とは何だろう。
思うに、生きづらい彼らの「悲しみ」でもある。
家族はそれを共有しようと頑張りながら、本人のパニックの要因にもなる「生活」の様々な現象の対応に追われる。
そんなことは周囲は気付かないし、さらには知っていても気付かないふりをされることもある。
多分周りが思う以上に集中の必要な状態で頑張り、人と触れ合うことすら時間を削がれて、結果孤独を感じて戦っている家族は多いと思われる。
激しい飛び出しの問題行動の理由は、あれだったのかもしれない
息子が保育園の時のこと。
広い園庭には、親たちが土を盛って作った「山」があり、子供たちはよくそれに登って遊んでいた。
あるお迎えに行った日に、息子はその山のてっぺんに、一人で立っていた。
山の中の緑の木々のこぼれ陽が、風が吹いていたことでサラサラという葉の擦れる音とともに、キラキラと光を動かしていた。
その中の高い山の上で、息子は誇らしげに立っていた。
ピンと背を伸ばして立っている姿に、保育園の先生は
「風を食べているんですよ」
とニコニコとして言った。
見てみると、確かに彼の口は笑顔のまま、ハグハグと動いていた。
光と風の中の息子を見て、なぜだか妙に感動したことを覚えている。
この保育園は障害を持った子供たちが何人か通っていて、その子供たちを先生たちはつぶさに観察しながら支援していてくれたのだと思う。
息子が出会った最初の支援者たちだ。
先生たちは息子のことを「外が大好きです。周りのどの家の室外機が好きかも決まっているんですよ。キラキラしたものが好きで、よく観察しています」
飛び出しでどこかへ行ってしまう彼の行動を、問題行動とは言わずに「散歩」と言ってくれた。
みんながお昼寝の時間は、彼と先生との大好きな散歩の時間になっていた。
小学校に上がり、保育園の時とは違い家で過ごす日が多くなった。
それも夏や冬の長期休暇になれば、当時は放課後当デイサービスという障害を持った子供たちを放課後や休日に預かるシステムもなかったので、ひたすら24時間を子供と向き合って過ごすことになる。
当時の母親たちは、そのために働くことはできなかった。収入面も、精神面も厳しく、とにかく本人に費やす時間でいっぱいいっぱいだし、兄弟児たちは大変な思いをしていたに違いない。
そんな夏の暑いある日、隙をついて飛び出し、あっという間にいなくなった息子が見つからず、警察すら発見できないまますでに数時間経った頃、近所の人が息子を見つけてくれた。
息子が見つかったそこは、小さな川の上に掛かった橋の上で、その橋から身を乗り出して両手を川に向かって広げ、腕を千切れんばかりに伸ばして手のひらをひらひらと左右に動かしていたのだ。
自閉症の特徴として語られることも多いエピソードではあるが、彼は手のひらからこぼれる川のせせらぎのきらめきを、心から楽しんでいたのだと思う。
知らない場所は怖いという障害を持った人たちも多いが、息子は知らない場所が大好きで、だから一旦飛び出していなくなってしまったら、探し出すのがすごく大変だった。
けれど一緒に知らない場所に行くと、最初にやるのは立ち止まって風を感じることのようだ。
ちょっと下を向いて、自分の両手を握って、風がふくと「ふふっ」と笑っている。
彼は見えない風がお気に入り。
そう考えると、彼にとって楽しいことが、興味のあることが、何だか嬉しいことが、外の世界にはいっぱいあるんだと思う。
大好きで、ついつい壊して中身を確認したい衝動に駆られる電化製品を目指し、近くの店舗で保護されたことも何度もあった。
近所の公園のブランコも制覇した。
1日に5回も6回もあった飛び出しの意味は、彼にとって憧憬の外の世界を見るための、ひとつの手段だったのかもしれない。
行動援護が飛び出しを外出に変え、問題行動ではなくなった
そんな生活をわき目もふらず送っていたが、少しずつ我が家が救われ始めたのは、支援の手が集まりだしたことにある。
支援が福祉サービスとして実現したことで、ひたすら追いかけっこの毎日から変わり始める。
息子の飛び出しは、福祉サービスの「行動援護」を利用することで、大きく問題行動から転換していくことになる。
行動援護とは外出支援で、WAM NETは以下のように説明している。
(以下WAM NETより引用)
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行動援護とは——————————————————-
行動に著しい困難を有する知的障害や精神障害のある方が、行動する際に生じ得る危険を回避するために必要な援護、外出時における移動中の介護、排せつ、食事等の介護のほか、行動する際に必要な援助を行います。
障害の特性を理解した専門のヘルパーがこれらのサービスを行い、知的障害や精神障害のある方の社会参加と地域生活を支援します。
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息子は幸いにも、息子を深く理解しようとしてくれるヘルパーさんたちとの出会いがあった。
そのヘルパーさんたちと共に外出を繰り返すことで信頼関係を築くことができた。
そのため、たった一人で外の世界へ飛び出していた息子は、誰かと一緒に外を楽しむことを知った。
買い物も、カラオケも、そして外のきらめきや風も。
息子の笑顔は、それらを楽しんでいることを教えてくれる。
そうやって外の世界をひたすら走っていた息子は、誰かと一緒に歩くことができるようになった。1日に5回も6回も飛び出していたことは、誰かと一緒に外の時間を4時間や5時間過ごすことで1回にまとまった。
そして、外に行きたいときは勝手に飛び出さずに、私たちにも「外に行こう!」と誘ってくれるようになった。
こうして大変だった飛び出し行動は、誰かと楽しむ外出へと変貌した。
「あり得ない」と思っていたことを「あり得る」に変えた
行動援護はただ外出を楽しむだけではなく「人との関わり」を教えてくれることで、コミュニケーションを楽しむことも学べるのだと思う。
コミュニケーションスキルは、障害があるゆえに人と関わりを持つことが困難で、様々なトラブルに巻き込まれる可能性がある彼らにとっては付けておきたいスキルだ。
それらのスキルを学ぶのも難しい彼らが、行動援護を利用することで楽しんで学べるのだとしたら・・・。
彼らの人生は豊かになっていくのだと思う。
息子が2歳の時、障害を告知されたその日に、親子三人で公園を散歩した。私たちの横を学校帰りの制服を着た高校生たちが談笑しながら通り過ぎていった時、父親は息子を見ながら「この子には、あの学生たちのような日は来ないんだな」と思ったと言っていた。
でも息子は、今は行動援護で笑顔で外の世界を自分以外の人と楽しむことができるようになった。言葉は持ってはいないが、言葉ではないやりとりをしながら、風を感じて歩いている。
制服は着ていないけれど、父親がありえないだろうと思っていたことを、息子は今しっかりと楽しむことができている。
ルールは変わっていくべき。だからこそその姿を伝えたい。
実は行動援護について、ある障害を持ったお子さんのお母さんたちから話を聞いた。
それは住んでいる自治体では、必ず行動援護を利用する理由として、病院や習い事などの施設に通っている既成事実がないと、申請できないということだった。
それは私の息子の居住地では、理由よりも障害を考慮しての利用で申請が通っている。そもそも通院が決まってから申請しても、もう遅い。
確かに元々の外出支援の出発点は、理由が先だったかもしれない。
しかし、この支援が障害を持った人たちの暮らしを豊かにするという、人として生きていく上で何よりも大切なことをヘルプする一面を持っていることを知っていたら・・・。
福祉サービスは「理由」よりも「豊かな人としての暮らし」を支えるためのもののはずだ。
行動援護は国が施策として始めたものなのに、なぜ自治体によってこうも差があるのか、どうにも理解できない。
この格差は無くなるべきだし、理由よりも人としての視点を重要視して欲しいと思う。ルールはより良い方向に、柔軟に変わっていくべきだ。
そして、それにはもちろん、しっかりと向き合ってくれるヘルパーが不可欠だ。
人の人生を豊かにするこの仕事は、今人手不足だ。
息子のヘルパーさんたちは、みんな自分の仕事に誇りを持ってあるように見える。
そして、こうも言ってくれるのだ。
「こんなにいい仕事はないですよ。彼らと関わるのは本当に楽しい」
この言葉は、向き合った人にしかわからない言葉だと思う。
この仕事の生きがいを知ってくれる人たちが、この先増えていってほしいと願ってやまない。
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