最近ではあまり聞かなくなった気もするのですが、知的障害を持った子どもを育てている親達が、よく掛けられた言葉がありました。

「知恵の遅れはあっても、足が立つから楽で良かったね。寝たきりの子の親は大変よ!」

足が立つとはコレいかに? でもこれ、実際に私も何度も言われた言葉です。

つまり、歩けない障害の子より育てることが楽だから良かったね! ということです。不幸中の幸い……という隠された意味にモヤモヤしたものです。

また、身体に障害のある子どもの親達も、言葉掛けは違っても同じ体験をしていたようです。

「寝たきりだから、親が全部やってあげなきゃいけなくて大変だけど、頑張ってね」

何だか全く励まされている気がしません。どうしても“何もできない”というキーワードが付いてまわるようです。しかもこれ、思いやりから励ましているつもりなので厄介でもあります。

最近ではあまり聞かなくなったと言いましたが、では、それだけ様々な角度からの理解も増えたことで、その言葉が死語へと追いやられていったのでしょうか。

知的障害といえど、自分の体調とも向き合っているんです

自閉症の息子は体温調節が上手くできないので、体に熱が籠ってしまうことはしばしばです。また、てんかん発作も持っています。症状が出た時は、やはり早めに気付いてあげないと体への不都合が起きかねません。

ところで、それを聞いた人が「え? 体にも障害があるの?」と聞いてきました。いやいや、そうではないんだけれどね、と答えると、今度は「じゃあ、病気があるの?」と……。

実はこれ、そんなに珍しいやり取りでもありません。やっぱり、しっかり息づいているんですね。知的障害者は体は丈夫! という誤解。

それは、知的の特別支援学校に、エアコンをなかなか設置してもらえなかった時も感じたことです。体は丈夫だから暑さ寒さも大丈夫でしょう? という誤解が生んだものです。

今は普通小学校にも設置されるようになりましたが、近年の熱中症が問題になったからです。

けれど、知的の特別支援学校は、体温調節のできない子ども達が実に多いことは、案外知られていませんでした。説明しても、なかなか理解してもらえなかったということもありました。

実際には知的障害といっても単に知能の遅れだけではなく、子ども達の抱える隠れた身体的な問題は本当に様々で、なかなか表に出てこなかったり、非常に分かり辛いのです。

そのことを知っていれば、体調に全く気を遣うことなく過ごしている……というのは間違いであると理解できます。実際、それで命を落とした子もいるほどです。

理解してもらえれば、本人達は結構頑張っていることに気付いてもらえると思います。

重度の身体障害者だって、いきいきと暮らすことができるんです

最近のテクノロジーの進歩は素晴らしいものです。その活用で、今まで重い身体の障害を持った人達に表現の場所もできました。手を動かせなくても、例えば目の動きでパソコンに文字を打てたり、絵を描くこともできるようになりました。

このテクノロジーが最大に貢献したことは、何より動けなくても、話せなくても、実は豊かな情緒と表現力、美しい言葉を持っている人達がたくさんいたことを、周りに気付かせることができたことです。才能がどうのこうのという話しではなく、何もできないなどということは、ただの思い込みでしかないことを周りに証明してくれたわけです。

けれど、実際にテクノロジーに頼らなくても、関わりの中で一緒に活動をしていくと、案外彼らの内にある豊かさに気付かされることも少なくはありません。

そういえば、重度の身体障害者でありながら、周りを巻き込んで一人暮らしを実現させた人の実話が映画にもなりましたね。足が立つから、立たないからというのは、ただ人を比べたいだけの 何の意味も持たない言葉のようにしか思えません。

当事者でさえ間違う「誤解」も「思い込み」もあります

そういえば、こんな喧嘩話しを耳にしたことがあります。

スクールバスを待っていた時、知的障害の特別支援学校と肢体不自由の特別支援学校のバスが、送迎に同じ場所を利用停車していました。そこに迎えに来た二人のお母さんが喧嘩をはじめたそうです。

自家用車を路駐してバスを待つのですが、どちらがバスの停車場近くに自家用車を停めるかで揉めたのだそうです。そしてお互いの言い分が

「こっちは車椅子なんだから、バスの近くでなければ大変なのよ!」

「こっちだって、バスの近くに車を停めておかなければ、子どもがバスから飛び出して走っていってしまうから危ないのよ!」

なるほどなるほど。

でもね、これを聞いた同じバス停で子どもを待つ親達の間では、「どっちもどっち!」という判定を全員が下していたのでした。

当事者でさえ間違うんですね。お互いを知る努力は、当事者にだって必要だというこのエピソード。お互いを知らなければ、この話しはきっと、また何度も繰り返されてしまうでしょう。

かく言う私も気をつけねば……。勉強になるお話でした。

つまりは、決めつけないで! というお話

障害を知識として得るということは、そんな簡単なことではありませんし、障害を持った子どもの親だって、何一つ間違うことなく子育てをできるなんてあり得ません。

じゃぁ、ボランティアはどう接すればいいの? 

障害の名前や得た知識だけで付き合おうとすると、ちょっと引いてしまう自分に出会うかもしれません。あるいは、勉強したから障害のことはよく知っている……と思うかもしれません。

だけど、忘れてほしくないことがあります。

知識や障害名でかかわるのではなく、目の前にいるその人そのものと付き合って下さい。

障害は、付属品みたいなものです。その人を知る上で、一番大切なことではないんです。

その後で、困っていることはその人に教えてもらえばいいんです。知識や見た目先攻での「決めつけ」で付き合ってしまうと、その人自身が見えなくなってしまいます。

その人そのものを知ることから始める。

これ以上のものは、きっとないと思うのです。

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