息子が養護学校に通っていた時代からすると、今のお母さんたちは本当にたくましく活動的になってきたと、嬉しい気持ちと共に頼もしく思う。

発達障害という言葉が認知され始め、理解が進み始めた現在、その真っ只中に子育てをしているお父さんやお母さんたちは、自分たちでコミュニティを作り、勉強会を開き、イベントを開催して親子で楽しみながら啓発に頑張っている姿を、SNSが発達したこともあり、目にすることが当たり前になってきた。

やっとこんな時代が来た。
そう思いながらも、家族の努力と協力なくしては、実現できなかったこともたくさんあるだろう。
心より尊敬するし、その大変さに心を寄せて応援したいと思う。

ただ、そんな中にもコミュニティに参加することすら難しい人たちがいる。光と影があるなら、影の時代はなかなか先に進まない。

それはどんな人たちなのか。そして、理由はなぜか。
何か手立てはあるのか。

問題行動の強い障害を持った子ども、いっときも目を離せない子ども、その家族たち、その日の1日を、いっぱいいっぱいで使い切る人たちがいる。

ほぼ外に向かって語られることのない、今もその真っ只中にいる人たちのリアルに、心を寄せてもらえることを願いながらこの記事を公開します。

| 親たちのコミュニティは子供たちが作る。けれど、それさえ叶わない親たちもいる。

子育てとはそう簡単にいかないものだと、全ての親たちが感じたことはあるだろう。もともと私たちは、子どもの成長も一般常識などというテンプレートのような中で測ってしまうところがある。

そこに障害ゆえの特性が加われば、子どもはそのテンプレートから外れてしまい、そこを周囲に突かれて悩む親も多い。
枠の中は誰も容易に見ることができるが、その外の部分になると、まるで悪であるかのように見ることをあまりしない。

けれど当事者の親たちは向き合わなければならないし、子どもと共に成長することが求められるようになる。
この時、周りから枠の中に入るように育てなさいと言われることも多々あることだ。

しかしその外の部分こそが、理解され辛い本人のことを最も理解することができる部分であり、面白いところだということに、当事者の多くの親たちは本当は気づいているのだと思う。

今のお父さん、お母さんたちは、子どもの特性を理解しようと学び、自分と子どもの居場所を作ろうと活動を始めた。
昔は排除に追いやられることの多かった人たちだが、今は協力をする人たちも増えてきた。

しかしこの時代にも、孤独から解放されない親たちもいる。
問題行動の強い人達は、全体の統計から見ても少数派になる。さらに他害や自傷や物損などが強く現れる強度行動障害となると、障害を持った人の中でも1%ほどの割合しかいないと言われる。

その行動の激しさや敏感すぎる特性、本人の思いを伝えられない、伝わらない大きな悲しみからくる全身全霊のぶつかりが問題行動と捉えられ、本人よりも周りへの配慮をせざるを得ない親たちは、行動範囲を極端に狭いものにしなければならない。

そんな人たちは、今も排除される中にいる。虐待や命を落とすほどの事件に巻き込まれることすらある。

親たちの口からよく出る言葉がある。
集団行動は難しいから・・・。
周りに迷惑をかけてしまうから・・・。

この言葉の意味は、自分の子供の特性からくるものではない。
そもそも受け皿も受け入れも見つからない、居場所がない孤立した中に、未だに親だけが頑張らなければならない状況があるからだ。

| コミュニティの中にいるのに自分はいない。それを救えるのは支援者の繋ぐ力だと思う。

子どもの成長過程において、療育機関や学校に通い出す頃には、それなりに子どもも親たちにもコミュニティはできる。そこでいろんな場面で企画される、親だけだったり子ども連れだったり、私的なイベントや交流も度々行われたりする。

けれど、自分の子どもが強度行動障害のように行動障害が強ければ、なかなかそれに参加できなかったりする。参加しても、子どもにかかりっきりで交流どころではい。ひたすらトラブル回避に追われることとなる。

なんとかその場にいたとしても、交流することが困難な悲しさや孤独は、親も子どもも人知れず抱えていたりする。
本来なら共感できるはずの話が、自分の子どもはそれよりも酷くかけ離れていることに、共感よりもなぜこんなにも障害が重いのか、自分への問いかけを繰り返したりする。

周りの親たちにさえ、自分の子どものことは話しても解ってもらえないかも知れないと思ってしまう。
ずっとずっと、誰にも自分の子どものことを話すことなんかできなかった。

確かにコミュニティの中にいるはずなのに、自分と自分の子どもはそこにはいない。

実はこの話は、強度行動障害の親たちの間では大いに共感された話だ。

しかし、そもそも障害の重さや問題行動の強さが、コミュニティ参加への壁になるのはどうしたものだろうか。

その壁を低くして繋ぐ役目ができるのは、実は支援者たちだと思っている。
そしてその支援力は、子ども達と信頼関係で繋がっていることが必須であることは間違いない。

支援の手が入ることで、親の心は随分と軽くなり、孤独ではなくなる。
子どももコミュニティの中で、自分なりに楽しむことができる。
福祉サービス利用の縛りはあるが、そのようなコミュニティに対する支援の広がりも、今後は必要になってくるのではないだろうか。

例えどんなに重い障害があっても、せっかく生まれてきたのなら、その人の人生は豊かでなければならない。
障害によって極端に少ない経験も、外の楽しさを知ることも、本当は実現可能なはずだ。そしてその中に、支援者は欠かせない存在だ。

| 同じ悩みと想いを持っている人たちはいる。けれど見つけるのは難しい。

私が周りの人たちに「伝える」という活動を始めてから、そのテーマに「強度行動障害」というワードが出てきた時、お母さんたちが私に声をかけてくれるようになった。
そのほとんどは、同じ「強度行動障害」の子どもを育てているお母さんたちだ。

そのお母さんたちは涙を流しながら話してくれる。
「やっと同じような子どもを育てている人に出会った」
「誰にも言えなかった。それを人に伝えてもらってよかった」
「ずっと孤独だった。でも、私一人ではなかった!」

誰とも思いを共有できずに、ずっと孤独だった人がなんと多いことか。
この言葉をお母さんたちから聞いたのは、一度や二度ではない。

| 共感と言葉を選ばずにすむ場所を作りたい

先日、強度行動障害のお子さんを育てているお母さんたち数人と、お話をする機会があった。やはり、共感してもらえないから人には話せない、と言っていた。

けれど、この時ばかりは全員が共感できる集まりだったので「それ、あるある!」「それ、本当に辛いよね!」と頷きながら、子どもとの格闘の傷跡を見せあったりもした。

普段は聞けない「こんな時はどうしてる?」という話題にも普通に盛り上がり、情報も共有できて貴重な時間だった。

人が聞けば引かれるような内容も、この中なら話せる。しかも笑いながら。
頑張っているお母さんたちの笑顔は、とても尊く見える。

私も以前やっていた勉強会では「ここならなんでも話せて嬉しい」という声がよく上がっていた。このような場所は本当に必要だなと改めて思った。

共感と言葉を選ばずに話せる場所。作っていきたいと思っています。
そこに共感できる人がいらっしゃったら、ぜひ力を貸してください。